昭和53年08月22日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
みおやすう信心をするが良いと。ここでは言うなら信心の奥義というか、おくがというかその奥義を教えて、そのおくがへ一歩一歩進んでいく手立てを、毎日説かれてあるのです。その信心の言うならば極意とも言うもの。教えられておってもそれをね。行じようとしなかったらやっぱり信心は難しいです。どんなにほんならみやすう、もう今日の御理解は御道の信心のもうよく申しますよね、もうこれに極まったと言った様な言葉を、私は皆さんに良く申しますね。
御道の信心はもうこれに極まった。だからここんところだけを大事にしていきゃ、それこそ嬉しゅう楽しゅう有難い信心。言うならその日その日のおかげが受けられる。ただもう本当にその日その日が苦しゅうて、苦しゅうてやっとかっと立ち行くと言うのじゃなくて、おかげを受けてゆけば立ち行くと仰るその、はあ今日も神様が、このようにお恵み下さったんだ。今日も例えばもう明日食べるものがなかっても、今日立ち行かせて下さった、食べさせて下さったんだ。
また明日は明日でとこういやいいんだけれども、また明日の事を心配をする。心配せんでよいのにも心配する。もうその日その日が立ち行けば楽じゃ。それを晩でも眠られんように心配をするという。さあ今晩米は食べてしもうたが、明日はどうなるじゃろか。かつれなんだんじゃないだろうかと言う様な心配をするわけですね。毎日毎日神様が決ったように間違いがなく、お縋りさえしていけばちゃんとその日暮らしであっても、おかげ下さるんだから、そこを確信して日々立ち入ってゆけば楽じゃと仰る。
信心はみやすう信心をだから、みやすうと言う所までが、分からせて貰うまでが難しいんです。昨日吉井の波多野さん、ご承知のように、もう合楽のベテランですよね。もう三十年から毎日吉井から日参しておられます。もう最近この頃話されることが、非常に穏やかでそして非常にこう、含みのあるというか。私は先日美登里会でしたでしょうか、婦人会でしたでしょうか。波多野さんの発表を聞かせて頂きながら、信心ちゃ有難いなあと思わせて頂いた。
こうぎらぎらしない。何とも言えんまあ、あの日々の信心の状態を話しておられました。信心が本当に段々身になり、血になっていきよるわけです。昨日ここでお届けをされるのに、本当に御理解を頂いてこうせんならん、ああも思わんならん。こうすることが本当だけれどもと分かっておりながら、それを行じませんもんですから、中々おかげにならないという意味のお届けをされるんです。そしたらその波多野さん分かればね、そうせずにはおれんのだ大体は。
分からんからそうだからいかにも、朝の御理解を頂くと一通り分かったような気がしておる。いやあ今日の御理解は、先生がもう今日の御理解は、もうおかげの決め手だと。もうこれに極まったという風に説かれるから、本当にそうどこじゃないなと、毎日毎日有難う頂いておるから、分かったかのようにあるけれども分かってない。私はこのことに一つの、昨日は驚きを感じました。昨日は研修のときにもその事を取り上げたんですけれども、分かったようで分かっとらん証拠に、説明が出来ないじゃないか。
朝の御理解ば暗記しとけというほど難しいことは言わん。今日の御理解はもうここだと、という言うなら例えば、四、五日前かねもう修行はくのいち修行に極まったと。はあなるほど神様の知恵ちゃ素晴らしいことだなあと言うて、そん時に私がその事を説明したから、聞いてはあ成程素晴らしいなあと聞いて帰って、そこでほんならくのいち修行とは、どういう修行だったかねと。
昨日も私みんなその事を。ここでほんなら修行に専念しておる先生方でも、それをほんなら、説明しきるものは何人もはおらない。そらもう合楽理念をマスターして、合楽理念を行じていけば、もうそれがくのいち修行だと。そげんいやもうそうですけれどね。くのいち修行に対する説明というものがなされない。もうこれに極まったんだと。皆さんここんところを今日は聞いて頂かんならんのです。こうしてああすりゃおかげになる事は分かっておるばってん出来んという。分かっとらんとです。
分かっとりゃ出来んはずはないです。分かっとらんから出来んのです。はあこれが決めてだと。もうこれに極まったんだと、分かっとらんからそんな見やすいことが実際は出来てないんです。先日合楽のまあそうそうたる連中ばっかりが、大祭の後に残られた一人の先生が、何時までも残っておられて、まあ合楽の色んな信心話になって。合楽ではこの頃宗教以前の宗教と言った様な事を言っておるそうだけれども。
これは教祖様よりも、大坪さんの方が上の棚に行くごたる事じゃないかと言う様な事を、あの一般では言いよるよと言う事を、まあ言うて下さった。私それを高橋さんから聞いて、「それであぁた方は、黙ってきいとった」と私が言うたら、「はい」ちこう言う。その先生に、あんた「あんたはどげん思うか」ち聞いて見りゃよかったとこう言いました。大体、宗教以前の宗教とは、実はこういう素晴らしいことであって。
金光教が自体がそう言う事が本当に分かったら、金光教の信心と言うのがもう、宗教の最高峰を行くもんだと。一つの御道の信者としては、誇らしいものさえ、また誇ってよいほどしの素晴らしい事なんだよと言う事を、説明すりゃ良かったのにと。というけれども、誰も説明が出来てないです。知っとったばってん言わじゃったというとでも無いらしい。その人一人一人に聞いてみて、それを説明が出来ない。
だからね。皆さんがこうやって御理解を頂いて、成程こうやって皆さんが、成程なるほどと言う様にして頂いておられる。だからそん時にそのお話の、言うなら味わいなら味わいというものは味わいながら、はあ毎日毎日、結構な御理解頂いて有難いと言うておるから、帰って今日はお母さんどげな御理解じゃったのと、もし息子なら息子から聞かれたときに、今日はただ有難かっただけでお話は出来ない。分かっとらん。そら分かっとらんという、分かっとらんから行じられないんだと
漠然と分かっとるのだから、修行もまた漠然になってしまうのだと。もう一つの事が分かったら、もうこれが決めてだと。例えばあのここの合楽に久保山さんという方が、毎日日参して見えます。もうこの方なんかは毎日、今日も成り行きをどうぞ大事にさせて下さい尊ばして下さい。必ずこのお届けをされます。もうその事だけにもう焦点を置いてあるんです。もう本当に素晴らしい雰囲気が家庭に生まれてくる。最近は嫁さんを貰いなはった。ところがどっこい内々のことばっかりのごたるわけにはいかん。
ほら成り行きを大切にすると言う事も、ちっとこう難しくなってきた。けれどもまた一段とそこんところに思いをおかせて頂いていくと、言うなら他人であろうが嫁御であろうがです。この成り行きを大切にすると言う事は、こんなにも素晴らしいんだと言う事。もうこの一言をいわば分かろうと、まあしておられる精進です。からその成り行きを大事にすると言う事は、どんなことかと言う事が分かっておられるから、もうそれを行じなければおられんのだ毎日。分かっとらんから行じられんのだ。
昨日私は波多野さんの、そのお届けをさせて頂いて、こうおかげになることは分かっとるけれども、分かっとらんから行じられんとよと。「先生そう言われてみると、本当分かっとらんですね」と言う事になったんです。皆さんもこうここ四、五日、繰り返しいただいとるけん。ほんなら宗教以前の宗教と言う事が、どういう意味合いかというならば、それを疑問に思うたり質問したりする人に、こう私ならば説明すると言える人が、何人もおるだろうか。
昨日、末永先生が発表のときに、その事を説明しておりました。これは本当に見事に説明しておりました。だからそれはあの、何か小さいパンフレットにすると良いねというほどしに、長々と説明しておりました。先日宮崎に研修にあの、十三日会におかげを頂く道中で、まあちょっとこうあの車の中のラジオを聞かせて頂こうと思うて、スイッチを入れた途端に、その流れてきたそのお話と言うのが、あれは何とか言いよったですね。キリスト教の何とかと言いよった。
あ市村内村鑑三さんか、という人の話しがありよった。そらもう大変な有名な方だそうです。私は知りませんけれども、ま話じゃ聞いておりました。その方がねもし自分がキリスト教者でなかったならばね。もっと人間らしい生活が出来たろうにと言っておられるそうです。もし自分がキリスト教者でなかったならば、もっと人間らしい生き方が出来たろうにと。これが最後の言葉であった。これは仏教においてしかり、キリスト教において、その辺のところをよく説明してました。
だからこれは人知とか、又は奇跡的おかげとかその人間の英知、その思索から生まれたと言った様な宗教でない宗教だからなんだと。金光教の場合は教祖の神様は、天地と一体になれれる(パンと胸を叩いて)ね。昨日一昨日の御理解で言うと、私共が一心と願うその一心の心。和賀心に神がござるから、おかげになるというあの一心です。だから何様を拝んでも一心というものは出るもんだと。またおかげも受けられるもんだと。その一心と天地金乃神の一心とが交流する。
その一心と一心とが出会う。そこから生まれてくるいうならば、天地のリズムでありいうならば、天衣無縫のおかげであると言う事になってくる。金光教の信心はそういう信心なんだと。だから宗教以前の宗教と言うても、まあ言わざるを得んのだ、ここが分かったら。もう原始宗教のところからずうっと説いて、あの説明をしておりました。だからあんなに詳しくは、例えば言わなくってもです。私が皆さんに聞いて頂いた、伝えた所だけぐらいはやっぱり、分からなければいけない。
私はこの分かると言う事が、ははあただ聞いて、今日の御理解有難かったというだけで分かってるんじゃないと言う事です。ここが勘所ばいここがが芯所だと言う信心のです、例えばほんなら、もう御道の信心修行はくのいち修行に極まった。しかもくのいち修行に現れてくるところの説明というのは、完全に出来なくっても、神様が受けて下さるというほどしの話であった。しかもくのいち修行の第一なりと、いうならば言うての御理解。ははあ、修行の第一のもの。
しかも出来なくっても出来たかのようにして、この修行に取り組むならば、神様が受けて下さるというほどしの素晴らしいもの。ならばこれはどうでも分からにゃいかんと、分かって、行じてみんなにも伝えて、そしてその日その日が立ち行くおかげを頂いて、本当にこれが五年十年と続いたら、我ながらわが心が拝めれるようになるはずだと思うのです。今日の御理解から言うと。分かっとらんから、また分かろうと努めないから、何時まで経っても、おかげが受けられんと言う事になるのです。
久保山さんじゃないけれども、それに徹することなんだ信心とは。しかし執念のようなもんだ。もう今日もどう言う事が起こっても、どっこい成り行きであるならば、これを合掌して受けようと。もう時にはよろよろするような時もあるけれども、内々ばっかりの時には有難い、有難いばっかりで受けよったけれども、他人が入ってくるとそんなわけにはいかん。それこそよろよろするごたるこつもあるけれども、それを生神金光大神様をおすがりさせて頂いて行じさせて頂きよったら。
嫁もこういう風に変わってまいります。嫁も一緒にこういういわゆる、一蓮托生のおかげが受けられると言う事になってきた。だから私は分からなければいけないと言う事。お互いが信心に修行はつき物と言われるから。その修行をですしかもその修行の大事な、もうこれに極まったと言われるくのいち修行ですから、もう一遍皆さんがくのいち修行を研修してみて、検討してみてそして今日も本気で、くのいち修行に取り組ませて頂こうと、言う事になると、人間だから疎漏なことばかり。
お粗末なとこばかりだけれども、それが苦が苦になっとらなくても、神様が苦を修行と受けて下さる。くのいちというのは、女と書くわけですね。くを書いてノと書いて一。いうならば女の忍者のことだと言う事です。変幻自在いうならば自分の身を隠したり、飛んだり跳ねたりすることも、本当に人間業とは思われないような技を体得するのが忍者なんです。ように私どもがですもうそれこそ、自由自在に自分の心をです。有難い神愛神願として、もう自由自在にこれを受けていくという稽古。
それには食物訓あの三つの食物訓に現れておるようにです、食物訓は幾らもありますけれども、その中の三つを選んで御理解でした。例えば食物は命のために、天地の神が造り与えたものぞと言われる。だから食物を命のために頂けば、現代医学でそれはその病気にはいけないというものでも、命のためにと頂けばそれは毒にはならないという、まあ言う意味の事ですね。食物はわが心で毒にも薬にもするものぞと。
だから起きてくるその事柄を命の為にでなくて、なら自分の心の為に心の健全の為に起きてくる事柄をです神様が心を健全にして下さろう、心を大きくして下さろう大きなおかげも下さろうとする働きが、目の前に起きてきたんですから、これを曲りなりにでもそれを修行として受けたら、もうこれが最高の修行だと言う事を、食物訓の三つからずうっとこう頂いた。だからくのいち修行くのいち修行ばっかり言うたっちゃ、くのいち修行とはどう言う事かと、説明も出来んでおいて行の上に現す事は出来ない。
わからなければ出来ない。だから分からんなら分かるまで尋ねても見る、何回でも聞いても見る。そしてこれに極まったと言われる様な、例えばもし御理解であったら、それを自分の頂き方の上にも、それを極めていかなければいけない。そこにはいうならばそういう、ほんならきわめても自分が体得すると言う事は難しいことかじゃなくて、もうちょいと、楽しゅうして応えんごつなる。本当に金光様のご信心の教えの深さ、深さと思うただけでも心がドキドキしてくる。
今日はこれに本気で取り組ませて頂こうという意欲が湧いて来るんです。分からんから意欲が湧かんのです。信心はやろうと思えばみやすう、楽しゅう出来るんだけれども、やろうとも思わない、いややろうと思わんという心が分かっとらんから起こらんのです。ただね。こっちの耳からこっちの耳に聞いて抜かせただけである。さあ今日の御理解は有難かった。今日の御理解は有難かった。どげん有難かったか。いんやとにかく一遍聞いてんの、私もありがたかけんというだけの事。
はっはは説明は出来ん分かっとらん、分かりゃ行じなければおられないほどしのものが教えなんです。その教えにゃ必ず力が伴う。おかげが伴うそういう繰り返しがです、十年も続いたら確かに、我ながらわが心がまつれれるようになる。今日は私は分かると言う事をね、分かったようで分かってないのだから徹底して分かる。いうならば手立てというか、分からせてもらう勉強をさせて貰うて、本当に自分のものにするために。教えを本当に分かる。分かったらそんなに難しいことじゃないのだから。
むしろ楽しゅう出来るぐらいなもんだから、分かったら行じる。行じたら必ずそこにおかげが受けられる。それが十年もかかっておるうちには、それこそ我ながらわが心がまつれれるほどしの、有難いものにもなってこうというものです。分かったようで分かってないと言う事を、それこそもう一遍分かって下さい。そして本気で分からせてもらう。そしてそこから、本当の信心生活が出来ると言う事になるのです。
どうぞ。